知りたいことは、いつでもスマホで検索できる。AIが、好みに合わせて答えをくれる。消費者にとって、情報は今や「与えられるもの」ではなく「取りに行くもの」になりました。そんな中、マーケティングが担う役割も変化しています。
日本最大手のマーケティング企業である電通から、ウェブマーケティング専門の電通イーマーケティングワン(現在の電通デジタル)を経て起業。長年、マーケティング業界に携わる小川共和氏は、時代と共に変化するマーケティングの姿を注視し続けてきました。大企業から中小企業、マスから1to1まで、マーケティングに精通する小川氏が今、改めて重要性を指摘するのが、マーケッターに必要な「2つのスキル」です。

小川共和(おがわ・ともかず)
小川事務所代表。東京大学文学部仏文科卒業。電通本社マーケティングソリューション局次長、電通イーマーケティングワン(現電通デジタル)専務取締役を経て電通を定年退職後、小川事務所を設立。著書に『マーケティングオートメーションに落とせるカスタマージャーニーの書き方』『戦略から始めるエンゲージメントマーケティング~Withコロナ時代の対面営業に依存しない新しい『売る仕組み』~』(以上、クロスメディア・パブリッシング)。マルケト、ロックオン、福島県庁、大伸社ディライト、NEC、東京ガス、オリコン、ジャパンビルド、ニジボックス、センチュリー21、クロスメディアマーケティング等の顧問を経験。青山学院大学大学院(MBAコース)非常勤講師、Schoo、Udemyの講師。
マーケティングは“水物”。成功の秘訣は、失敗を許すこと
私は1981年に新卒で電通に入社して、28年間勤務した後、電通イーマーケティングワンへ移りました。定年後は個人で起業し、現在はマーケティングコンサルタントとして複数の企業の顧問をしています。マーケティングの世界に身を置くようになってから、もうすぐ45年が経ちます。
マーケティングには2つの側面があります。1つは、数字やデータをいかに分析するかということ。もう1つは、人間の心理に働きかけて、望ましい行動を起こさせることです。
私はもともと理系で、高校時代は数学者を志していました。しかし大学受験を目前に、「もっと生々しく、人生の喜怒哀楽に根差したことをしたい」と考え、思い切って純文学の道を選択。大学ではフランス文学を専攻しました。
マーケティングという言葉を初めて知ったのは、電通入社後の新人研修でのことです。「数字」と「心理」、両方の側面を持つこの仕事は、理系と文系のどちらにも関心のある私にとって、まさに天職だと感じました。
マーケティングに関する誤解としてよくあるのが、「手順通りに進めれば再現性のある成果が得られる」というものです。しかしマーケティングには人間の心理が影響します。そのため、どんなに慎重に理論を構築しても、最終的には消費者の気持ち次第で結果が変わってしまいます。一度成功したからと同じ施策をしたところで、実を結ぶとは限りません。つまり、マーケティングは“水物”なわけです。
上手くいかないとすぐに、「マーケティングをしても意味がない」と判断する人がいます。しかし、失敗を繰り返し、そこから学んでいくことで、徐々に成功するようになっていきます。経営者の方に言いたいのは、マーケティングに失敗はつきものだということ。2度や3度失敗したからって諦めてはいけません。
広告を見たい消費者なんていない。必要なのは“情報受信”

人間の心理に大きく左右されるからこそ、マーケティングでは消費者の立場になって考えることが非常に重要です。私は以前、『マーケティングオートメーションでおもてなし』(クロスメディア・パブリッシング)という本を上梓しました。その中では、「マーケティングにおいて、ITツールとは人への“おもてなし”である」という考えを示しています。企業が一方的に売り込みをしても、顧客に嫌われてしまう。気持ちよく、共感してもらうことが大切です。
冷静に考えてみればわかりますが、「広告を見たい」と思っている消費者などいません。広告は常に“嫌われ者”である。それを念頭に置かないと、受け手に届くものはつくれません。ベテランのクリエイターやマーケッターであれば、それをよく理解しています。
最近は、一般企業の社員が広報活動として、SNSで発信することが増えました。ただ、顧客のことを考えず一方的に情報を提供するだけでは、ひとりよがりな発信になってしまいます。それを避けるためには、“情報発信”だけでなく“情報受信”、いわゆるソーシャルリスニングが必要です。まずは自分たちが受け手にどう映っているのか、SNSやクチコミサイトで語られるコメントを見て、よく分析することです。さらにお客様や関係者、メディアの人達との直接的対話によって、自社や自社がやろうとしていることが相手側からどう映っているのか、肌感覚で感じることも重要です。
マスから1to1へ。デジタルが開いた新時代

マーケティングに大きな影響を与えたのが、デジタルの発展です。インターネットが当たり前になり、高度なシステムを開発しないでも使えるSaaS型クラウドが登場したことで、マーケティングに劇的な変化が起こりました。かつてはマーケティングといえばマスマーケティングを指しましたが、デジタルが発展したことで、1to1マーケティングが可能になりました。
マスマーケティングのターゲットは匿名の集団です。例えば30代の主婦や大都市圏のビジネスパーソン。マスマーケティングをするためには、テレビコマーシャルができるぐらいの大きな資金力がある企業が断然有利です。
一方、1to1マーケティングのターゲットは特定の人物です。顧客でなく「個客」とも表現しますが、実名顧客あるいはCookie (Webサイトが、訪問者の端末やブラウザを識別するために、ブラウザに保存する情報)がターゲットです。顧客データベースから情報を取り出し、一人ひとりの消費者をしっかり見極め、それぞれに対して施策を打つ、しかもその一人ひとりと長期間継続的な関係構築ができる。そうしたマーケティングが、大きな資金力がなくてもできるようになりました。
私が本格的に1to1マーケティングの世界に足を踏み入れたのは、電通イーマーケティングワンへ移籍してからです。それまで勤めていた電通本社では、テレビや大きなキャンペーンといったマスマーケティングが中心でした。対して、電通イーマーケティングワンでの仕事はデジタルを使ったウェブマーケティングのみです。1to1マーケティングに取り組むには絶好の場所でした。私はマスよりも、断然1to1の方が面白いと感じたんです。
いまから45年ほど前、電通に入って間もない頃に、私は『マスメディア恐竜論』というテーマで論文を書き、マーケティング協会で表彰されました。マスメディアのように、大勢の消費者を十把一絡げにする戦略はやがて通用しなくなる。それぞれの消費者に向き合って、一人ひとりに適したコミュニケーションをとっていく方法がいずれ主流になるという内容です。デジタルによって1to1マーケティングが可能になり、私の予想は現実になったと言えると思います。
消費者主導の時代。マーケッターに必要な2つのスキル
スマホの普及は、マーケティングにさらなる影響を与えました。消費者は、知りたいことがあれば好きな時間に好きな場所で、好きなだけ情報を得られるわけです。さらに近年は生成AIの登場により、個人の好みに合わせた情報が自動的に表示されるようになりました。消費者は自ら企業のウェブサイトまで行く必要がありません。そうした変化により、企業側がコントロールできることは大幅に減りました。かつては各企業がメディアを使って一方的に消費者へ情報を届けていましたが、いまや主導
権は消費者に移っています。そんな中、ますますマーケッターに必要とされるのが、インサイトを掘り下げる力と、クリエイティブアイデアを創出する力です。
インサイトとは、消費者本人さえ気付いていない深層心理のこと。どのような刺激を加えれば消費者の心理に変化を起こせるか、消費者の「心のボタン」を考えることが重要です。また、クリエイティブアイデアとは、まだ誰も思いついてないアイデアのことです。他者の成功例を真似るのではなく、まずはそれを除外して、オリジナルなアイデアにこだわることです。
これら2つが、マーケッターにとって最も付加価値の高いスキルです。AIはこれらに関しても良き壁打ち相手になりますが、やはり最初に考え始めるのも、思考を深化させるのも、最終的に判断するのも人間マーケターです。この2つについて高いスキル
を持ち、AIと高度な対話ができることで、AIに鋭く深いアウトプットを出させることができます。AIは良き相棒ですが、あくまで主役はマーケターです。
まずマーケティングから始めよ。目指すは全社員マーケッター化

ビジネスをする上で、マーケティング思考は非常に重要です。高い技術力があっても、マーケティングが上手くいかなければ商品は売れません。しかし一部を除き、日本企業はマーケティングが苦手な傾向にあります。
その理由のひとつは、マーケティングの専門家が企業内に育ちにくいことにあります。特に大企業では、優秀な人材はマーケティングをやっていたかと思ったら、次は営業部門に、そして人事や総務の管理部門になどと、さまざまな業務を経験させられます。これでは専門家としてのマーケターは育ちません。
また、日本企業ではまだまだ終身雇用に近く、マーケターの人材も入れ替えがないという点もあります。昔ながらのマーケティングで成功した人がトップになると、そのまま居座るので、新しい視点を導入するのが難しくなります。
外資系企業の場合、新たなマーケティング方法を導入するために、ドラスティックに責任者を入れ替えます。2年もすれば、その部下も含めてほとんど入れ替えになります。それが組織の新陳代謝になるんです。
また、日本企業では、そもそもマーケティングというものが信用されていないように感じます。欧米や中国に比べ、日本の企業では営業部門が力を持っている傾向があります。営業担当者は「仕事を取って来ているのは自分たちだ」という意識が強く、マーケティングに重きを置く人は多くありません。そのような風土では、マーケティング思考は浸透しないのです。
私は電通に入社して間もなく、営業部門に配属されました。トヨタ自動車の海外広告を担当していたため、肌感覚が通用する国内とは異なり、データからロジックをつくって戦略を立てなければなりませんでした。営業とはいえ、マーケティング思考を駆使する必要があったわけです。言語や文化が異なる相手でも、マーケティングに基づいて施策を立てれば、商品は売れていきます。
私は、全社員がマーケッターになるべきだと考えています。そのためにはまず、会社のトップ自らがマーケティング思考を持つことです。マーケティングで成功したいという強い意志を持つ経営者を、支援していきたいと思います。
昨年の自分を馬鹿にし続ける。「死ぬまでマーケッター」宣言

定年後、私が顧問として起業することを選んだのは、マーケッターを続けたいという一念からでした。企業の中で長年働いてきて、サラリーマンという働き方にはもう飽きていました。しかし、マーケティングには全く飽きていなかったんです。デジタルのおかげで、マーケティングはこれからますます面白くなる。そう考え、個人事務所を立ち上げました。あれから10年が経ちますが、いまでもその思いは変わりません。
もちろん、いいことばかりではありません。組織に所属していた頃は、「何をすべきか」というミッションが上から与えられていましたし、守ってもらえてもいたと言えます。しかしいまは誰からも指示をされず、守ってくれる組織もありません。すべてを自分の責任で判断する必要があります。うっかりすると、自分がすべきことを見失ってしまう。顧客にどんなことを提供できる存在でありたいか、常に自問自答する日々です。
「昨年の自分を馬鹿にし続けること」、これが私のモットーです。1年前の自分に、「当時はまだ、こんなことしか考えていなかったのか」と言えるくらい、常に進化し続けることを目標にしています。
そのためにはまず、いまの自分に解決できないものを見定めること。そして、生成AIに代表されるような、新たな変化を取り入れることが必要です。その2つを結びつけ、解決方法を考え続けます。この先何歳まで続けられるかわかりませんが、できるところまでやってみたいと思っています。やはり、死ぬまでマーケッターでいたいですからね。
取材・文・編集:神田朋子











