仕事やプライベートに関わらず、SNSやインターネットを駆使した情報収集やコミュニケーションが主流となってきている現代。多くの人々がSNSやインターネットの情報から自分の価値を模索し、未来の姿を描こうとしています。しかし、増え続ける操作された情報に惑わされ、「自分が目指すべきもの」や「自分本来の価値」を見失う人も増えています。
そんな時代に「人との深い関わりが自分の隠れた価値の発見につながる」と語るのが、昭和歌謡の黄金期を彩った伝説的なミュージシャン、つのだ☆ひろさんです。1971年に『メリー・ジェーン』をリリースし、そのソウルフルな音楽性で日本の音楽界に衝撃を与えた彼は、数々の名曲を生み出し、世界的なミュージシャンとも共演をしてきました。
彼がどのようにして日本の音楽界を魅了し、世界中の音楽家たちから認められてきたのか。成功の背景には、音楽の高度な技術だけでなく、人とのつながりを大切にすることで磨かれた心がありました。つのだ☆ひろさんは今もなお、大きな夢を描き多くの人を巻き込みながら新たな挑戦を続けています。
つのだ☆ひろ
高校2年のときにジャズドラムとリズム理論を富樫雅彦に師事。高校3年で鈴木弘とハッピー・キャッツでプロデビューを果たす。卓越したテクニックと日本人離れしたパワフルなドラミングが評判を呼び、1960年代後半からジャズ・ピアニスト佐藤允彦のトリオとの活動を皮切りに、渡辺貞夫カルテット、ジャックス、岡林信康、成毛滋、フライド・エッグ、ストロベリー・パス、五つの赤い風船、赤い鳥、サディスティック・ミカ・バンド、浅川マキ、加藤登紀子、中島みゆき、矢野顕子など、日本を代表するさまざまなミュージシャンたちと共演しドラマーとしての地位を確立する。
また、1971年には歌手として『メリー・ジェーン』をロングヒットさせ、そのソウルフルな歌声で一躍脚光を浴びる。清水健太郎のヒット曲『失恋レストラン』『帰らない』をはじめ、研ナオコの『風をくらって』、南沙織の『街角のラブソング』、田原俊彦の『騎士道』など、作詞・作曲家としても活動し、さまざまな歌手に楽曲提供も行っている。日本のロックドラマーとして初のPearl Drumsモニター。BBキング、ラリー・グラハム、ビリー・プレストン等各国の著名ミュージシャンと共演するなど幅広い活躍を行うほか、サマードラムスクールを36回開催、東京都文京区で音楽スクール「WILD MUSIC SCHOOL」校長を務め音楽教育にも力を入れる。
最高の仲間たちが気付かせてくれる自分の価値
つのだ☆ひろといったら、『メリー・ジェーン』を歌っている人というイメージを持たれている方が多いと思います。でも僕は、ドラマーであり、作詞家であり、作曲家であり、ミュージックスクールの校長でもあるんです。何か1つに専念していたら、もっと音楽家として成功したのではないかと言われることもありますが、僕はただ「つのだ☆ひろ」という1人の人間を磨き続けているんです。
そんな僕が、今までどのように一流のミュージシャンたちとの人脈を築き、共演し、競争の激しい昭和歌謡の世界でヒット曲を残すことができたのか。これからお話しします。
僕はこれまでに、国内外の多くのミュージシャンと共演する機会がありました。僕が校長を務める「Wild Music School(ワイルドミュージックスクール)」には、日本国内だけでなく海外からも多くのミュージシャンが訪れ、壁にサインをしてくれます。リッキー・ローソン(マイケル・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストンなど多数アーティストのドラムを担当)を始めイアン・ペイス(ディープ・パープル)、ティコ・トーレス(ボン・ジョヴィ)やチャド・スミス(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)など、世界的に有名なミュージシャンたちがみんな友人として訪れてくれました。彼らとは、食事を共にし、日本を案内することもあります。
先日も、東京にあるライブレストランCOTTON CLUB(コットンクラブ)に行ってデニス・チェンバーズ(アメリカを代表するジャズ・フュージョンドラマー)とマイク・スターン(マイルス・デイヴィスなどを担当したギタリスト)に会いました。そこで、チャンバーズから「ポンタはどうしている?」と聞かれ、村上“ポンタ”秀一さんが亡くなったことを伝えました。そして「あいつはあんまり教育の方に頭を向けていなかったから。残念だった」ということを語り合ったんです。ポンタさんは、矢沢永吉、沢田研二、山下達郎、井上陽水などを担当していた、日本を代表するドラマーです。
ポンタさんはプレイヤーとして自分の価値を感じていたかもしれませんが、自分の経験を伝える価値についてはあまり意識していなかったようです。もし彼が今も元気だったら、仲間たちは迷わず「教育に力を入れろ! お前の経験は次世代に伝える価値がある」と言っていたでしょうね。
成功体験を語るインタビュー記事や本などで「誰にだってできます」という言葉をよく見かけますが、僕は、その人にしかできないことの方が多いと感じています。one and only(その人にしかない)価値があるんです。ただ、その価値に自分で気付くことができない人は多いと思います。自分では分からない価値に気付いて教えてくれるのは自分の周りにいる人です。親しい仲間や家族、ライバルかもしれません。特に、自分の価値を最大限に高め、見い出してくれるのは、志を共にし、互いに高め合える仲間だと思います。「いい仲間」は自分に新しい価値を与えてくれます。
最近は、SNSなどで「自分にはこんな価値がある」と一方的に発信している人が多いように感じます。もちろん、自分をアピールすることも必要です。でも、その前に自分がどんな価値を誰に提供することができるのかを知ることも大切です。
世の中から認められる人間性を身に付ける
いい仲間ができる過程とヒット曲が生まれる経緯には共通点があります。それは、人に自分自身や作品の価値を認めてもらうことです。人や作品の価値は、受け取る人によって大きく変わります。
僕が大好きな映画「THE WIZ」を見に行ったときのことです。映画が終わると隣の人が「全然面白くないじゃん」と言って席を立ちました。そのときは映画の余韻を阻害されたことにすごく腹が立ちましたが、人の価値観の違いに気付くことができました。
人間関係で、好かれようとして「あなたは、本当に可愛い! 素敵だ!」と言っても、相手がどう受け取るかはわかりません。気を惹こうとお世辞を言っていると感じられたら、逆に印象が悪くなります。
どんなに良い音楽を届けようと努力しても、相手の気を惹こうと頑張っても、変えることができない価値観の違いというものがあるんです。だから僕はどんなときも素のままの自分を表現することにしています。多くの人に素の自分を好きになってもらうには、自分の人間性を磨く必要があると感じます。
僕はたくさんの人と関わることで人間性を磨いてもらったと思っています。下積み時代、師匠や兄弟子の後ろ姿を見て、自ら挑戦し、失敗を繰り返す度に叱ってもらうことでプロとしての礼儀や品格、所作を学び、人間性を磨いてもらいました。そして、プロの世界に身を置くことでさらに自分を磨くことができました。僕が世界中の一流アーティストと渡り合い仲間として受け入れてもらえたのは、一流のアーティストとして恥ずかしくない人間性を培ってきたからです。人はこうして成長していくのだと思います。
今は、YouTubeで音楽のレッスンがどんどん配信されています。それを見れば、必要な技術を習うことができます。でも、そうした学びには人との関わりが全くありません。プロとして、どういう場合にどう対応するかなどの振る舞いは、実際に体験して失敗を繰り返し、教えてもらわなければわからないことです。これはテクニックだけではない、人と直接かかわることで得られる大切な部分です。
音楽も言葉も行動も、すべて自分という人間が生み出すものです。磨かれていないザラザラなものを相手に放ってしまうと、受け取る相手は嫌な思いをします。いい影響を与えて欲しいと周囲に求めるならば、自分自身を磨くことです。
たった3分間、歌い手を輝かせるために
最近、『君は魔法使い』という曲を書きました。この曲は、2024年3月24日にリリースされた、鈴木雅之さんの新しいアルバム『Snazzy』の1曲です。僕が実際に受けた作曲の依頼は1曲でしたが、期間内に4曲をかき、マーチン(鈴木雅之)にこの中から歌いたい1曲を選んで欲しいと伝えました。多くの作曲家は依頼に対して1曲しか書かないため、ディレクターに驚かれましたが、僕は長年の友達が心から「この曲を歌いたい」と思ってもらえるような曲を贈りたかったので、彼のために全ての曲を全力で仕上げました。
このアルバムが完成してから、桑マン(ラッツ&スター桑野信義)に会ったときに「アルバムの中でひろさん(つのだ☆ひろ)の曲が1番かっこいいですよ」と言ってもらえたのは最高に嬉しかったです。
僕はいつも、奏でるアーティストの「素」の美しさを表現できる曲を贈るように心がけています。曲を提供するアーティストがどんな人物で、どの程度の歌唱力があるのかを分かった上で、魅力を最大限に引き出せる音と言葉を紡ぎます。
例えば、提供する歌い手の音域が1オクターブなら、その範囲で作曲をします。無理なく歌える音域を超えると、音が上手く出るか心配しながら歌わなければならなくなり、良さが失われてしまいます。歌い手が気持ちよく歌えば、その気持ちがリスナーにも伝わります。
最近のヒット曲を見ていると、技術やテクニックばかりを追い求め、どんどん複雑になっていると感じます。メロディーも、歌い手本来のキーを無視していて、いきなり低い音から高い音に飛ぶような曲が増えています。これでは裏声ばかりを使うことになってしまい、本来の歌い手の魅力が失われてしまいかねません。
また、日本語が正しく発音されていない場面も見受けられます。例えば「美しい音楽」という歌詞があったとして、この間に息継ぎが必要なタイミングがきていたら、「うつくしい、おんがく」という形で「美しい」の後に息継ぎを入れる歌い方をします。すると、正しい日本語として歌詞がリスナーに伝わります。これが「うつ、くしいおんがく」と、途中で息継ぎが入ると、伝わりにくくなります。さらに、1曲に言葉がたくさん詰め込まれていて、歌い手が早口になり、言葉自体が正しく聞き取れないという曲も増えているように感じます。
今は音楽の知識が無くても、誰でも簡単にコンピューターを使って作詞作曲をし、YouTubeなどで拡散することができます。そこで、たまたま上手くいってデビューを果たすことができても、後世まで語り継がれるようなスター歌手はなかなか生まれてこないのが現代です。世の中に出す、1曲の重みが軽くなっているように感じます。
僕らが活躍していた時代、ステージには五木ひろしや森進一のようなスター歌手が立ち、そのスターを輝かせるために音楽が存在していました。作詞家・作曲家たちは圧倒的な客観視点で、その1曲を演奏するたった3分、1人のスターを輝かせるためだけに奏でる音や言葉を絞り出していました。そうやって生み出された曲は名曲として、今も愛され、国内外のアーティストによって歌い継がれています。
僕は、時代が変わって音楽が変わっていっても、歴代の音楽家たちが築き上げた言葉やプレイヤーを大切にする日本の音楽観が、愛され続ける世の中であってほしいと思っています。
一流は夢物語ではなく物事の真実を語る
僕が校長を務めるミュージックスクールで生徒たちに伝え続けていることがあります。それは自分のなりたい姿を明確にすること。自分が目指すものがはっきりしないまま、行動をし続けることほど効率の悪いことはありません。
今の若者たちは、SNSからの大量の情報によって、目標を見定める感覚が鈍くなっていると感じます。自分が本気でなりたい姿を見つけたいなら、たくさんの情報の中から、「本当に良いと感じるもの」と「流行として見聞きして良いと感じさせられているもの」との違いを見極める必要があります。なりたい姿が決まったら、その分野の一流を探してください。何かの分野で一流になるためには、まず、目指す世界の一流を知ることです。
例えば、ポルカという音楽を知らなければ、ポルカのリズムは叩けませんし、本場の中華料理を食べたことがない人は、一流の中華料理を作れません。歴史、本場の音、本場の味を知らなければ、中途半端な作品になってしまう。
僕は結婚した当時から、妻をお気に入りの店にたくさん連れて行くようにしています。すると、妻の料理の腕はどんどん上がって、僕は毎日妻の美味しい料理を楽しむことができています。これは一流の料理に触れることで、その善し悪しがわかるようになった結果です。
一流に触れると、自分に足りない部分が見えてきます。そして何をすべきかがわかるようになります。もしわからなければ、その世界の一流に尋ねてみてください。
世の中の一流は「絶海の孤島で真実を叫ぶ狂人」だと僕は思っています。その業界の一流に近づき話を聞くことはとても困難です。実際に話を聞けたとして、本物を経験した人は夢物語ではなく物事の真実を語ります。自分の思い描くものと違うことを言われることもあるでしょう。すると語り手が自分の進みたい道を否定する「狂人」に見えることもあるかもしれません。でも、その話を素直な気持ちで聞けば大きな価値を得られます。
荒波を乗り越えて、絶海の孤島を見つけ、真実の物語を聞いてみてください。きっと人生が変わります。
全ての人が音楽の感動を味わえる世の中に
夢は実現するためにあります。夢を実現させるには、立ち上がって一歩前に進んでください。なぜできないのかを悩む間に、少しでも足を前に出すことができたら、夢に近づけます。
最近、僕と妻が長年描いていた夢が実現に向けて動き出しました。それは耳の不自由な子供たちに澄んだ音と音楽を届けるという取り組みです。私たちは、その夢の実現のために難聴者が使える骨伝導ヘッドフォン『夢のフォンシステム』を20年かけて開発し、2024年3月に耳の不自由な子供たちに体験してもらうことができました。
この取り組みのきっかけは、2003年に長岡の聾学校を訪れたとき、耳に障害を持つ子供たちが「It’s a Small World」を歌っているのを目にしたことです。子供たちは補聴器を使い、音程をとっていましたが、その補聴器には問題がありました。
一般の補聴器は日常会話が聞き取れる程度に音を増幅するため、聞こえる範囲が限られていて、その音域を超えると雑音が混じります。音楽の音域はとても広いので聴き取れない部分が多いのです。子供たちは補聴器で捉えられる限られた音域で、なんとかお互いの音を聴き取り、歌っていました。
補聴器で聞こえない帯域には何があるのかを調べると、音楽だけでなくたくさんの美しい自然の音がありました。竹林を風がサササッと吹いていく音、雀がチュンチュンと鳴く声、波がザラーンと押し寄せてくる音。難聴者の世界には風景に音がないんです。僕は、音を共有するということは感動を分かち合うことだと考えています。この感動を子供たちに贈りたいと想いました。
私たちは、健聴者向けの骨伝導ヘッドフォンを改良して難聴者に音楽を届けられないかと考えました。ですが、そもそも健聴者用と難聴者用ではシステム自体が全く違うため、この話を聞いた誰もが「骨伝導ヘッドフォンで難聴者が音楽を楽しむのは不可能だ」と言いました。それでも私たちは諦めず、この取り組みに共感してくださる、たくさんの方のご支援を受けて20年間試行錯誤を重ね『夢のフォンシステム』を生み出しました。
そして2024年3月、長岡聾学校で、僕たちが開発した骨伝導ヘッドフォンを使った音楽体験会を行いました。耳の不自由な子供たちが、プロのミュージシャンと一緒に、音楽を奏でたんです。参加した親御さんたちは「娘と一緒に音楽を演奏する日が来るなんて夢にも思わなかった」と感動してくださいました。
僕は、この『夢のフォンシステム』をもっと広め、耳に障害を持つ方々にも音楽と感動を届けたいです。この取り組みによって音楽の楽しさを知った子供たちが、いずれ僕の学校で音楽を学び、プロとして世界に羽ばたく日を夢見ているんです。
僕はこれからも夢を追い続けます。僕の音楽や言葉がシンバルの振動のようにたくさんの人の体を伝って、1人でも多くの人の胸を震わせられるように。
編集・取材・文:渡部 恭子(クロスメディア・パブリッシング)