毎日サーフィンばかりしていた学生生活を終え、東京でのサラリーマン生活。地元山梨への帰郷を決めたきっかけは、父からの「お前のハイエースを貸してくれ」という一本の電話でした。
人材派遣事業からスタートした会社は、現在は自社で雇用を支える仕組みを構築し、保育や福祉、モノづくり、農業など幅広く事業を展開しています。地元に未だに残る、仕事に対する古い固定観念を取り払いたい。野心を持った若者が、新しい働き方を実現できる環境を山梨に創りたい。多角的な経営の背景には、熱い想いがありました。

斉藤勇介(さいとうゆうすけ)
株式会社アシストエンジニアリング代表取締役社長。1978年山梨県生まれ。東海大学海洋土木工学科出身。大学卒業後は千葉県の海洋サルベージ会社に就職。2年間働いた後、東京の大手不動産企業に営業職として転職。2003年に地元・山梨に戻り、アシストエンジニアリングの事業運営に従事。現在は人材派遣事業を中心に、モノづくりや自社農園の運営、地方創生事業などの多角的な経営に携わっている。派遣が肯定される事業と地域課題解決の融合を実現させる働き方を、山梨県内で提案し続けている。
「俺の人生、このままじゃ負けてしまう」
私は山梨県にある、小さな工務店を営む両親のもとに生まれました。両親から家業を継ぐように言われた経験はありませんでしたが、なんとなく「将来は自分が跡を継ぐものだ」とは思っていました。
学生時代はサーフィンに熱中し、勉強をした記憶はほとんどありません。大学を卒業して最初に就職した会社は、千葉県にある海洋サルベージ会社です。仕事や将来に対する志といったものは全くなく、就職先を選んだ理由は「海が近くサーフィンが継続できて、東京が近い」という安易な理由です。
土木の現場監督として社会人生活が始まってみると、現実は作業着を着て、「ゴミの島」と呼ばれるお台場の埋立地へ、朝5時に向かう厳しい日々が始まりました。スーツを着てオフィス街で働く同級生たちの姿を見て、真面目に勉強してこなかったことや目的もなく就職したことを後悔し、「俺の人生、このままじゃ負けてしまう」と強く感じたことをきっかけに私は心を入れ替えます。ビジネスを人生の中心に置き換え、まずはできることをやろうと考え土木施工管理などの資格を取りました。
新卒で入社した会社で2年間勤務した後、私は技術系ではなく営業職に向いていると判断し、大手不動産会社の営業職に転職しました。先輩方に助けてもらいながら毎日必死に不動産売買の業務をこなし、営業としての自信をつけていきました。当時両親からは「そろそろ会社をたたむつもりだから帰ってこなくていい」と言われていました。私の中では、家業を継げないならば、営業成績も上位に入る結果が出てきていたのでそのまま東京の不動産業界で生きていこうと思うようになっていました。
しかし、不動産営業として日々お客様と接する中で、その決意にも少しずつ変化が現れました。当時の私の担当エリアは、吉祥寺周辺です。お客様が高いローンを組んで建てる家が、山梨出身の私には非常に窮屈なものに見えたんです。
そうしてだんだんと、物価が安く、広々とした環境がある山梨に戻ることを意識し始めました。同時に、山梨に拠点を置きながら東京を向いて商売をするほうがビジネスの勝機もあるのではないか、と考えるようになりました。
自分たちで雇用を支える仕組みをつくる
山梨への帰郷を考え出した頃、父から突然の電話がかかってきました。当時、私はサーフィンを継続して趣味としてやっていたのでハイエースというワゴン車に乗っていたのですが「お前の乗っているハイエースを貸してくれ」と突然父に言われたんです。
その理由を尋ねると、「関係先の派遣会社がつぶれて職を失った40人ほどの日系ブラジル人を、引き受けることにした。彼らを工場へ派遣する事業を始めたいが、引き受けのためにお金を使ってしまったから、送迎のための車を買うことができない」とのことでした。「そろそろ会社を畳む」と言っていた父が、まさか新しい事業に出資するなんて、と本当にびっくりしました。これがアシストエンジニアリングの始まりです。
両親は、自分たちで事業をやっていくつもりだったようで、「車だけ貸してくれれば、お前は戻ってこなくていい」と言われました。しかし、ちょうど私自身が山梨へ戻って事業を始めようと考えていたタイミングです。私は派遣と家業の建設会社を絡めれば勝機があると判断し「その事業運営は私がやる」と決め、反対を押し切って山梨に戻りました。

正式に社長に就任したのは2013年ですが、実質的には初めから私が社長のようなものでした。当時私は人材派遣に関する専門知識を持っていませんでしたが、幸い、派遣会社に勤めていた高校時代の同級生が協力してくれることになりました。彼からノウハウを教わりつつ、私、友人、日系ブラジル人の方々、通訳の方と、少人数体制でスタートしました。
営業が得意だったので、事業は順調に拡大して派遣スタッフも増えていきましたが、2008年にリーマンショックが発生します。景気が悪くなったことによって、派遣先企業から契約終了を告げられてしまいました。約300名いた派遣スタッフ数は一気に50名程度に減り、世間からは「派遣は悪だ」と批判されるようになりました。私自身も介護施設の送迎の手伝いなどで日銭を稼ぐ、厳しい日々を過ごしました。
この時、「人材派遣事業は他力に頼った事業である」と痛感しました。景気悪化で仕事がなくなれば、雇用を守ることができない。「このままじゃ派遣事業はダメになる」と思うと同時に「ここで負けるわけにはいかない」という、私の“何くそ根性”が燃え上がります。 まず、「派遣が悪ではなく、肯定的に認められる会社にしよう。そのためには、自分たちで雇用を支える仕組みが必要だ」と考えました。自社で工場を持ち、モノづくりをすれば、派遣先がなくなったとしても自社で雇用を支えることができる。それが実現すれば、派遣社員の方にも「アシストなら、たとえ派遣先に切られても雇用を支えてくれる」と安心して働いていただくことができます。そのような思いから、人材派遣以外の分野にも事業を展開することを決めました。
農業との融合で実現した「派遣が肯定される働き方」
私は「まずは山梨で事業を成功させる」と決めて、東京から戻りました。帰郷してからは、会社と社員の利益だけを追求するのではなく、「地域社会にどのような影響を与えられるか」ということも常に考えてきました。また、「地域が抱える課題を解決して、山梨県全体を元気にしたい」という思いも、ずっと持ち続けています。

山梨県はもともと果樹栽培が盛んですが、近年は耕作放棄地の増加が課題となっています。耕作放棄地を活用して自社で農業を始めれば、地域の課題を解決しながら人材を柔軟に配置できるのではないか、と考えました。さらに、自分たちで作った農作物の価格を自分たちで決めて売ることもできます。
農業の中でも、特に果樹栽培は、繁忙期とオフシーズンの差が激しく、人材派遣とは非常に相性が良い事業です。例えば、閑散期の冬は工場で派遣社員として働き収入を確保し、夏は自社農園に勤務するといった働き方ができます。まさに、私が目指していた「派遣が肯定される働き方」です。労働者側は一度、当社に派遣登録をすれば何度も履歴書を書く手間が省けますし、企業側も、毎年同じ人材を継続して受け入れられるというメリットがあります。
そう考えていた矢先に、近隣にあったラ・フランス畑のオーナーが亡くなられ、その奥様が困っているという話を聞きました。翌日、私は畑にお伺いし、「自分に農園を任せてほしい」とお願いしました。
奥様にご快諾いただき、そこから自社農園へのチャレンジがスタートしました。もちろん、最初からうまくいったわけではありませんが、周囲の協力も得ながら続けることができています。現在は、いちご、桃、ぶどうの観光農園(イチゴザンマイ・モモザンマイ・ブドウザンマイ)の運営や、新規就農を目指す方への支援も行っています。
メディアも、「農業で地域課題を解決する派遣会社が現れた」と肯定的に取り上げてくれるようになりました。周囲から感謝され、社会的に認められる仕組みを構築できたことに、大きな手応えを感じています。これからも山梨の雇用を守り、地域に貢献し続けていきたいです。
農業に限らず、新しい事業を始めた頃は知識も経験もありませんでした。けれど、ありがたいことに、私には仲間がいました。「新しい事業を考えている」と相談すると、周囲が情報をくれたり、昔からの仲間が手伝ってくれたりしたのです。地元の繋がりがあったからこそ、ここまで続けてくることができたと思います。
企業と人材を繋ぐwin-winの事業を構築

新規事業を展開する際は、派遣事業との親和性がある事業に積極的に投資する、という姿勢で取り組んできました。また、時代の流れに合わせて、事業を開始するタイミングを計らうことも大切です。
例えば保育事業は、2016年から始まった「企業主導型保育事業費補助金」実施のタイミングで参入しました。人材派遣会社が保育所を運営することで、子どもの預け先がないために働けない保護者の受け皿になることができます。短時間勤務などの希望条件も、当社が間に入って交渉することで、派遣社員の方の心理的負担を減らすことができます。
また、アスリートキャリア支援事業は、2019年に施行された「働き方改革」によって生まれた「外部コーチ需要」に目をつけました。この改革では、残業や休日労働の規制が厳格化され、学校教員が部活動の指導をすることが難しくなりました。それによって、外部指導者の需要が高まったのです。
しかし、指導を担うアスリートにとっては、平日の夕方や土日のみコーチングをする働き方では、とても生活できません。コーチ業と他の仕事を両立させるには早めの退勤が必要ですが、そうした働き方に理解のある企業を、自分で、しかも地方で探すのは大変です。
そこで当社が、アスリート人材と企業の仲介役を担うことにしました。企業に対し、「現在はコーチ業を優先するため時短勤務となるけれど、将来的には正社員として勤務する可能性のある人材」と提案します。そうすることで、企業側も、前向きに受け入れてくれるようになりました。
これは、企業とアスリートの双方がwin-winとなる支援です。アスリートたちには、ずっとスポーツに打ち込んできた体力と、多少の理不尽さにも負けない忍耐力があります。また、常に「勝ちたい」という野心を持っている。それが良い具合に仕事に向かえば、企業にとっては魅力的な戦力となります。アスリート側も、コーチ時代は派遣社員としてダブルワークを行い、コーチ引退後には正社員に転換できるという安心感を得られます。
山梨に“挑戦と成長の循環”をつくる

山梨県内の企業の中でも、当社はいち早く派遣と自社事業の連携やアスリートキャリア支援といった新しい働き方を提案してきました。新型コロナ禍を経て、東京ではリモートワークなどの柔軟な働き方が浸透しましたが、山梨では今でも「朝8時から夕方5時までの定時勤務」という固定観念が根強く残っています。結婚や子育て、介護といったライフステージの変化に応じて、その時々の理想の働き方は変わります。地方にいても、自分に合った働き方を自由に選べる環境を作りたいんです。
仕事は「生きるために行うもの」ではなく、「人生を豊かにするための手段」であるべきです。当社の存在意義のひとつは、「働く」の起点を変えることだと思っています。柔軟な働き方を実現するだけでなく、山梨でもしっかり稼いで、ワークライフマネーバランスを保てる仕組みを追求しています。
私自身、一度は東京に出てがむしゃらに働きました。その経験は、現在の大きな財産となっています。同じように、現代の山梨の若者も「東京に出て働きたい」と考える人は多いでしょう。若いうちは野心を持っていろんなことに挑戦し、苦労も経験したほうがいいと思います。
一方で、私がそうだったように、東京から山梨に戻ってくる人もいます。戻ってくる若者が夢や野心を持って入社できるような、魅力ある会社を目指しています。野心や夢は「良い車に乗りたい」「良い家に住みたい」といった単純なものでいい。多少、生意気でカッコつけているくらいでいいんです。もちろん、東京に出ずに1社目に当社を選んでくれてもいい。その場合は、私が責任を持って育てます。
また、新しいことに挑戦したい人に「まずはアシストに相談してみよう」と思ってもらいたい。「相談したい企業No.1」として、地域から頼られる存在でありたいと考えています。山梨でもやりがいのある仕事に携わってしっかりと稼ぎ、心身ともに豊かな生活が送れるロールモデルを、当社がまず示していく。私自身も、目標とされる経営者になるために、まだまだ頑張らなければいけません。
これからのアシストを、“地域に挑戦と成長の循環”を生み出す会社にしたいと考えています。当社が地域課題を解決する事業を創出し、それを引っ張る若手リーダーを育てる。育てた若者が夢を持って独立し、さらに新しい事業を生み、地域を創生する。そんな好循環を作っていきたいです。
実現に向けて、現在は、山梨県内での実績を基盤に、静岡県や神奈川県の企業をグループ化するなど、事業規模を拡大しつつあります。山梨で確立した事業スキームを横展開し、他社との差別化を図りながら、日本一の地域創生企業を目指します。
取材・文・編集:くらさきしょうこ











