【コラム】〈シリーズ〉「一つの道」を進み続けた偉人に、「極める」の価値を学ぶvol.3 徳川家康


ビジネスにおいて何か一つを極めることで、その仕事の本質を理解し、完成度の高い仕事をすることができる。また、「一芸に秀でる者は多芸に通ず」ということわざもあります。営業、開発、管理、どの職種でも、突き詰めることで、広い視野を持つことでき、ほかの分野においても活躍することができるでしょう。

歴史上には、一芸に秀でた天才と呼ばれるような偉人が存在していました。生まれ持っての天才だったのか、努力して身に着けた一芸だったのか。そんな偉人たちはどのような人生を歩み、一芸に秀でる者になったのか、このシリーズでは、そんな偉人たちのストーリーを紹介していきます。


天下泰平の世が260年続いた江戸時代。その土台を築き上げた徳川家初代将軍の家康は、優れた政治能力を持っていました。

彼は幼少期から青年になるまで、他家の人質として、不遇な人生を送りました。しかしこの経験がのちの人生に大きな影響を与えます。
豊臣秀吉が没した後、関ヶ原の戦いで勝利した彼は、15代続く徳川家の一代目として、江戸幕府を開きました。長く続いていた戦国時代を、武家諸法度の制定などといったさまざまな政策を施行し、平和な世に変えたのです。

このコラムでは、政治という道を極めた徳川家康のストーリーを紹介します。

約12年間もの期間、他家の人質として生きる

徳川家康は、1542年に岡崎城で生まれました。父は松平広忠、母は於大の方です。

わずか6歳で織田家の人質となり、6歳から8歳までの間を尾張で過ごしました。
その後、人質交換によって、今川家に人質として送られることとなりました。広忠が今川氏からの支援を受ける見返りとして家康を差し出したのです。

彼は、人質時代を通じて、今川家で兵法や武芸、歴史を学びました。また、今川義元の息子・今川氏真との友好関係を築いたことで、後に彼が天下人となる基礎を作ったとも言われています。

このように、彼は幼少期から青年になるまで、人質として他家で過ごしましたが、この人質時代の経験が後の人生に大きな影響を与えたのです。

徳川家初代将軍の誕生、戦乱のない時代が始まる

江戸幕府を開いた徳川家康は、征夷大将軍に就任しました。

彼は、江戸城を拠点とし、全国の大名を統制下に置くことで、強固な中央集権体制を築き上げました。また彼の治世下では、士農工商といった身分制度が存在しており、武士、農民、職人、商人という序列が定められました。また、当初は黙認していたキリスト教を禁止し、徳川家中心という体制を確立させました。貿易は推奨していましたが、キリスト教は全面禁止の政策を推し進めることで、海外からの影響を遮断しました。

江戸を日本の政治・経済・文化の中心地とし、泰平の世を実現した徳川家康。その功績は、明治維新まで続く江戸時代の基礎を築いたと言えるでしょう。征夷大将軍としての威光は、後の将軍たちにも受け継がれ、徳川家の権威を不動のものとしたのです。

大名を統制するために制定された法

徳川家康は、江戸幕府の基盤を固めるため、武士の行動規範となる武家諸法度を制定しました。武家諸法度とは、武士の生活や心得を定めた一連の法令です。

彼は、関ヶ原の戦い以降、武士の統制を図るため、武家諸法度の制定を進めました。最初の武家諸法度は、1615年に発布されたとされています。

武家諸法度では、主君に対する忠義を第一とし、武士としての心得や禁止事項が詳細に規定されました。例えば、遊楽禁止、新しい城をつくることが禁止、倹約に努めるなどが盛り込まれています。

また、参勤交代の制度化や、大名の婚姻に幕府の許可を必要とするなど、大名を統制下に置くための規定も設けられました。参勤交代とは、大名が江戸と自領を一定期間ごとに往復する制度で、大名の勢力を弱体化させる目的がありました。

武家諸法度は、その後も徳川秀忠や徳川家光の時代に追加・改定が行われ、江戸時代を通じて武士階級の基本法として機能しました。幕藩体制の確立に重要な役割を果たしたのです。

武家諸法度により、武士の行動は厳しく統制されることになりましたが、一方で武士としての規範意識を高める効果もありました。家康の武家諸法度は、江戸幕府の安定と長期政権の礎となったのです。

幼少期ゆかりの土地で晩年を過ごす

徳川家康は、晩年を駿府城で過ごしました。
1605年、彼は将軍の座を二代目の秀忠に譲り、大御所として駿府城に隠居しました。
駿府は、彼が幼少期を過ごした地であり、隠居後も実質的な政治の中心地となりました。

また、彼は隠居後も政治的な影響力を維持し、重要な政策決定に関与し続けました。
例えば、1615年の一連の大坂冬の陣・夏の陣では、彼は作戦の指揮を執り、豊臣家を滅ぼすことに成功しました。
晩年の彼は、健康面での不安を抱えていました。急激に痩せ、腹にしこりができるなど深刻な病状に悩まされていたと伝えられています。現在でも死因は諸説ありますが、1616年4月17日、駿府城で75年の生涯を閉じました。

死の直前まで政治に関与し続けた彼の晩年は、隠居後も権力者であり続けた、まさに「天下人」と呼ぶにふさわしい人生だったと言えるでしょう。

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