〈エイプリルフール特集〉世界を変えた嘘。壮大なビジョンを掲げ、ほら吹きと言われた偉人たち vol.2 本田宗一郎


4月1日はエイプリルフールです、私たちはみんな「嘘はいけない」と教えられて育ちますが、この日だけは世界中の人や企業がいたずらを楽しみます。
「嘘」はときに、大きな原動力になります。歴史上でさまざまに成し遂げられてきた、世界を変えるような偉業。その多くは、周囲から見れば絶対に達成不可能だと思われるものでした。「あいつは、ほら吹きだ」と笑われるほどに壮大なビジョンを原動力に、困難に打ち勝つ。このシリーズでは、そんな偉人たちを紹介していきます。


今では世界的な輸送機器メーカーである、本田技研工業株式会社。通称ホンダ。

「世界一の企業になるぞ」

浜松で小さな町工場を立ち上げたばかりの本田宗一郎は、ミカン箱の上に乗り、社員を前にこう話しました。この無謀な言葉を聞いて、そんなことできるはずがないと笑う人もいたようです。

しかしそんな苦しい状況のなか、数々のヒット商品を生みだし、世界的な企業になったホンダ。

実現不可能と思われた彼の挑戦を達成するまでのストーリーを、このコラムでは紹介します。

自動車工場で働くことを夢見た少年時代

1922年、本田宗一郎は15歳の時に単身上京しました。故郷の浜松を離れ、東京での新しい人生に夢を抱いていました。

上京した彼は、湯島にあった自動車修理工場「アート商会」に丁稚(でっち)小僧として雇ってもらいました。アート商会は当時、最先端の技術を持つ自動車修理工場でした。雑用ばかり任されていましたが、本田は働きながら、自動車の構造や修理技術について熱心に学びました。

アート商会での仕事を通じて、彼は自動車の修理技術や改造技術など、自動車に関するあらゆる技術を吸収しました。

彼はアート商会時代を経て、独立への道を歩み始め、夢への第一歩を踏み出したのです。上京した15歳の若者が、やがて世界的な企業を築き上げることになるとは、誰も想像できなかったでしょう。しかし、彼はその夢に向かって、ひたむきに歩み続けたのです。

ただ一人、のれん分けを許された本田宗一郎

1928年の4月、アート商会での丁稚小僧を終えた本田は、アート商会浜松支店を開業しました。本田は唯一のれん分けを許され、開業することができた唯一の弟子でした。

当時浜松支店では、自動車修理工場を営んでいましたが、その過程で二輪車用のピストンリングの需要が高いことに気づき、製造業への転身を計画しますが、すでに修理業でうまくいっているのだからと猛反対に合います。

ピストンリングとは、ピストンとシリンダーの間に装着される金属製の円形部品で、気密性を保ち、エンジンの性能を維持するために重要な役割を果たします。

彼はあきらめず、1937年、静岡県浜松市に「東海精機株式会社」を設立し、昼はアート商会での修理業、夜は東海精機株式会社でピストンリングの開発に打ち込みました。

何度も何度も失敗を繰り返し、悩んだ挙句ついには、冶金の基礎を学ぶために浜松高等工業へ入学もしました。

そして何とか試行錯誤を繰り返し、ついに完成させることができたのです。

1941年に始まった太平洋戦争で、従業員は徴兵、空襲とその時発生した大地震で工場も失ってしまいましたが、東海精機株式会社の設立は、本田宗一郎が製造業界に本格的に参入する第一歩となりました。ピストンリングの製造を通じて培った技術力と経営手腕は、後のホンダの発展に大きく寄与することになります。

彼の独創的な発想と、品質へのこだわりが生んだピストンリングは、東海精機株式会社の主力製品となりました。この成功は、本田が二輪車業界で独自の地位を確立する礎となったのです。

会社設立から10年足らずで海外進出

1948年9月、本田は本田技研工業株式会社を設立しました。資本金100万円、従業員34名でのスタートでした。

静岡県浜松市の小さな町工場で自転車用補助エンジンの製造から開始しました。

そして1949年、ホンダは「ドリーム号D型」を発売しました。これは、フレームからすべて自社製のオートバイでした。当時の日本のオートバイは、ほとんどが欧米メーカーの技術を模倣したものでしたが、ドリーム号は独自の技術を採用し、高い性能と信頼性を実現しました。

1950年代前半、ホンダは生産規模を拡大し、東京都に販売会社を設立しました。そしてさらに1950年代後半、海外市場の開拓に乗り出しました。アメリカに現地法人を設立し、小型オートバイの輸出を開始しました。当時、アメリカのオートバイ市場は大型車が中心で、小型車の需要は限られていましたが、ホンダは独自の販売戦略で市場を切り開いていきました。

こうして、本田技研工業は設立から10年足らずで、日本を代表するオートバイメーカーへと成長していったのです。彼の技術力と経営手腕が、ホンダの発展を支えていました。

出前のお兄ちゃんが片手で乗れるバイク「スーパーカブ」

1958年に発売された「スーパーカブ」は、本田技研工業の歴史に大きな足跡を残したモデルです。しかし、その開発の舞台裏には、本田の熱い想いがありました。

当時の日本では、バイクといえば大型車が中心で、小型車はあまりイメージがなかったのです。しかし彼は、都市部での移動手段として、小型で実用的なバイクの可能性を信じていました。

そこで「蕎麦屋の出前のお兄ちゃんが乗れる、片手で運転できるバイク」をコンセプトに、スーパーカブの開発をスタートさせます。

誰が乗っても扱いやすくコンパクト、足元が汚れないようなシールドやチェーンケースを使用、さらには燃費も良いというバイクが完成しました。

日本で発売後はすぐに空前のヒット商品となりました、そして世界15カ国へ生産拠点を広げたこともあり、スーパーカブは売り上げを伸ばし、やがて社会現象と呼べるほどの大ヒットセラーとなりました。発売から60年以上経った現在でも、進化を続けるロングセラーモデルとして愛され続けています。

エイプリルフールに学ぶ、実現不可能なビジョンと思われた本田の偉業と残された遺産

本田は、自動車産業の歴史に大きな足跡を残した偉大な実業家です。彼の遺産は、技術革新やものづくりへの情熱だけでなく、チャレンジ精神の重要性など、多岐にわたります。

まず、がむしゃらに追求し続けた技術革新は、今日の自動車産業の発展に大きく貢献しています。彼は、高性能でコンパクトなエンジンの開発に尽力し、二輪車や自動車の性能向上に寄与しました。また、常に先進的な技術を追求する姿勢は、現在のホンダの DNA となっています。

次に、彼は、ものづくりへの情熱を生涯持ち続けました。自動車修理工場の見習いから身を起こし、独自の技術を磨き上げたその過程で数々の挫折を経験しましたが、決してあきらめることなく、夢を抱いて前進し続けました。この強い意志と情熱は、日本のものづくりの精神を体現するものであり、今なお世界中の人々を魅了しています。

彼の残した遺産は、単なる事業の成功にとどまりません、技術革新への情熱、ものづくりへのこだわり、チャレンジ精神、人材育成への取り組みは、日本の産業界全体に大きな影響を与えました。世界に誇る日本人実業家である彼の精神は、今なお多くの人々に受け継がれ、日本の経済発展を支える原動力となっています。

周りから「嘘」だと思われたビジョンを原動力にし、数々のヒット商品を生み出すことに成功した本田宗一郎。エイプリルフールを機に彼の偉業を振り返り、未来を切り拓く方法を考えましょう。

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