長谷川平蔵宣以(はせがわ へいぞう のぶため)は、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)として名を馳せた人物です。江戸時代において、“火付盗賊”とは放火や大規模な盗みを働く犯罪者たちを指し、その取締役職である火付盗賊改方は、江戸の人々の安心を守る重要な役割でした。池波正太郎さんの「鬼平犯科帳」の主人公のモデルとして、小説、ドラマにも描かれており、現代でも広く知られています。
しかし、彼は生まれつき曲がったことを嫌う厳格な人物というわけではありませんでした。若き日には遊郭に通いつめた放蕩者であったことが、史料によってはっきりと示されています。そんな人間くさい一面を持ちながら、最終的には多くの江戸庶民に頼りにされる存在に変わり、無宿人(むしゅくにん)の更生施設である石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)を創設しました。ここでは、幼少期の姿から人生をかけて抱いた信念まで、いくつかの出来事を通じて平蔵の意図や想いを掘り下げてみます。
厳しさと愛情に包まれた幼少時代
江戸時代の1745年(延享2年)、長谷川宣以は、旗本の長谷川宣雄の長男として江戸に生まれました。幼名は銕三郎(てつさぶろう)といいます。父の宣雄は後に京都西町奉行を務めるなど要職を担い、江戸幕府からの信頼も厚い人物でした。武家としての家柄は身分の安定をもたらす半面、期待も大きくのしかかります。幼い銕三郎にとって、父が公務で多忙を極める姿は、武士としての責務を幼心に覚え込むきっかけになりました。
幼少期に学ぶ書や武術は厳格なものが多く、周囲の大人は幼い彼に礼儀作法を厳しく教え込みました。そこには、ただ家の格式を守るためというより、強い正義感と責任感を備えてほしいという家族の願いが感じられます。平蔵となる以前の銕三郎は、そんな武家の子として周囲の大人に見守られながら成長していきました。
放蕩生活の裏側にあった反骨精神
しかし、成人が近づくにつれて銕三郎の様子は一変しました。彼は遊興にのめり込み、高価な着物や道具を買いそろえ、芝居に通い詰める日々を送ります。遊郭に通ってお金を使い果たし、「本所の銕(ほんじょのてつ)」と呼ばれるほどの札付きの若者と評されました。浪費を重ねる生き方は、厳しい武家社会であれば謹慎や改悛を促されるのが通例です。
それでも銕三郎は、周囲にとって理解しがたいほどのはみ出しっぷりを貫き、派手な暮らしぶりをやめようとはしませんでした。そこには、自分なりに世の中を見極めようとする反骨精神が見えます。父から与えられた地位や名誉だけでなく、自らの力と意志で世界を知りたいという欲求があったのです。23歳のときに将軍・徳川家治に御目見えを許され、正式に家督相続人となります。武家社会の手続きとしては大事な式典でしたが、当時の銕三郎にとっては、肩書だけが一人歩きする窮屈なものにも映った可能性が高いです。
その頃、頑固なほどの反発心や好奇心が混ざり合った銕三郎の姿には、後年の火付盗賊改方として犯罪者たちの裏をかくために使った観察眼の片鱗がうかがえます。周囲の者が苦々しく思うほどの行動力と大胆さは、平凡な守りに入る武士とは一線を画するものでした。
自分だからこそ救える人々がいる
1773年(安永2年)、父・宣雄が京都西町奉行在任中に急逝します。銕三郎はこのとき、否応なく家督を継ぐことになりました。これを境に、彼の生き方は大きく変わります。亡き父が果たせなかった志を引き継ぐためにも、放蕩生活をやめて公務へと本腰を入れる決意を固めました。通称を長谷川平蔵と改め、周囲が驚くほどの勢いで職務に打ち込みます。
江戸幕府の組織はさまざまな役職で成り立ち、平蔵の家柄であれば順当に出世が見込める立場ではありました。それでも彼は大名や旗本といった身分だけを気にするのではなく、庶民の苦しみに直接目を向けます。盗賊に泣かされる町人や、生活が成り立たず無宿人となった者たちの惨状を知り、自分の責務は公務として秩序を守るだけではないと理解しました。そういった姿勢には、父のような正義心を継ぎながらも、若い頃に身を持ち崩して世間の荒波を味わった自分だからこそ救える人々がいる、という確固たる思いがありました。
石川島人足寄場に込められた理想
1787年(天明7年)、42歳となった平蔵は火付盗賊改方に任命されます。冬季限定の当分加役(とうぶんかやく)から始まり、のちには通年の本役を務めました。関東各地を荒らし回った大盗賊・神道徳次郎の逮捕を成し遂げたことでも知られています。商家を襲い、婦女暴行まで行う無法者を相手に、平蔵は容赦しない姿勢を見せました。恐怖や力だけで屈服させるのではなく、密偵(隠密として働く手下)の配置や周囲の情報網を駆使し、犯罪者を追い詰める戦術を多用しました。幼い頃から鍛えられた武芸に加え、青年期の頃に培った人間観察の妙技が生きたといえます。派手な浪費をした経験があったからこそ、金銭欲の激しい盗賊たちの心理を見抜きやすかった面もありました。
平蔵が行動する際には、常に犯人たちが抱える背景を見きわめようとする姿勢がありました。罪を犯す人間がなぜその道を選んだのかを知ることで、解決策はより明確になると考えたのです。1789年(寛政元年)には、無宿人の更生施設である石川島人足寄場を老中・松平定信に提案し、実現させます。無宿人とは戸籍や身元のはっきりしない者を指し、社会から見放されがちな存在でした。平蔵は彼らにも働く機会と教育を与え、再び世に立ち戻らせようと努めました。これは単に保安上の対策だけが目的ではありません。更生の機会を作ることで、社会全体の犯罪を減らし、安心して暮らせる町にしたいという信念がそこにありました。
名声や地位よりも大切だったもの
その後、平蔵は町奉行への昇進を望みました。しかし、幕府の改革を主導していた松平定信との意見の違いから、その道は閉ざされます。定信が平蔵の若き日の放蕩や、密偵の扱い方に抵抗を覚えたのは史料で確かめられています。平蔵は人足寄場による社会的な救済と秩序維持の両立を掲げましたが、定信は厳格な締め付けを好んでいました。平蔵は死ぬまで自分の信念を貫き通し、町奉行の座を得ることはありませんでした。
それでも、火付盗賊改方としての功績を多く残し、江戸市中では欠かせない存在として尊敬の念を集めます。名声や地位だけを追い求めるのではなく、庶民が安心して暮らせる仕組みを作ろうとする心意気は、多くの町人から感謝されました。
石川島人足寄場は、当時としては革新的な更生施設でした。そこには、「犯罪者を力や恐怖で取り締まるだけでは不十分だ」という平蔵の強い意図が反映されています。自身が若い頃に世の中の甘い誘惑に転げ落ちそうになったからこそ、人間は軌道修正できるという信念を持ちました。彼が打ち出した方針は、江戸社会の安定に大きく寄与し、長年苦しむ無宿人にも新たな希望を与えたのです。
「罪を憎んで人を憎まず」
1795年(寛政7年)、平蔵は50歳という年齢で病に倒れます。将軍・徳川家斉は、その功績をねぎらうために薬を下賜しました。瓊玉膏(けいぎょくこう)という特別なもので、幕府の要職にある者の命を救うために用いられる貴重な薬でした。平蔵は最後まで職務への情熱を絶やさず、近しい者たちに後事を託す姿を示しました。しかし、願いもむなしく、その年のうちに息を引き取りました。
人々の記憶に強く刻まれているのは、罪を憎んで人を憎まずという精神でした。切り捨て御免(お上の決まりに基づく武士の特権)に頼った処罰ではなく、町全体から犯罪そのものを減らすための仕組みづくりに力を注いだ。これこそが長谷川平蔵宣以の本質です。彼が最後まで抱き続けた信念は、庶民の生活に寄り添う姿勢であり、放蕩者時代に得た経験を活かすための決意でした。豪快な性格と柔軟な知恵を合わせ持ち、自分が変われたのだから他人も変われると示し続けたのです。
どのような困難も、かつての己を思い返せば乗り越えられる。その強い思いが、人足寄場の設立や盗賊らの取り締まりの陰に脈々と流れていました。彼が掲げた「罪を裁くと同時に立ち直る道も示す」という方針は、当時として画期的なものであり、死後も江戸の人々の心に深く刻まれたのです。
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