〈シリーズ〉日本の近代化を大きく推進。新紙幣の肖像になった人物 千円札 北里柴三郎


2024年7月3日、20年ぶりに新紙幣が発行されました。
これから毎日目にするであろうお札に印刷された「渋沢栄一」、「津田梅子」、「北里柴三郎」は、なぜ選定されたか、ご存知でしょうか。

肖像に選ばれる理由の1つに「肖像の人物が国民各層に広く知られており、その業績が広く認められていること」というものがあります。
今回選ばれた3人は、日本の近代化に貢献し、携わった業界に大きな功績を残しています。このコラムのシリーズでは、それぞれの人物の生涯と現代にもつながる偉業を紹介します。


医の基本は予防にあると説き、国民の健康のために人生を懸けた北里柴三郎。

幼少期、彼は武芸を好み、いつかは軍人になることを夢見ていました。しかし、18歳のとき、父の勧めで熊本医学校に入学。そこで出会ったオランダ人医師マンスフェルトの熱心な指導が、北里の人生を一変させます。初めて医学に触れ、人々のために尽くしたいという思いに目覚めた北里は、医学の道へと進むことを決意します。

血清療法の発見から伝染病研究所の設立まで、日本の公衆衛生の向上に生涯を捧げました。その功績の裏には、人々のために尽くしたいという強い思いがありました。

軍人を志す少年が医学の道へ進んだきっかけ

1853年、北里柴三郎は肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町)に床屋の息子として生まれました。豊かな自然に囲まれた山間の村です。
幼少期は武芸を好み、いつかは軍人になりたいという夢を持っていました。しかし1871年に転機が訪れます。

父の勧めで18歳の時に、熊本医学校(現:熊本大学医学部)に入学することになるのです。そこで初めて医学に触れ、教官にオランダ人医師のマンスフェルトと出会います。勉強熱心な北里を見たマンスフェルトは、医学に興味のなかった北里に医学の道を勧め、熱心に指導をします。そして当初目指していた軍人・政治家ではなく、医学の道へ進むことを北里は決意するのです。

幼少期の環境や周囲との関わりは、北里のその後の医学の道を歩む上で、大きな影響を与えました。彼の努力家としての一面、そして人々のために尽くしたいという強い思いは、この時代に培われたといえます。

不可能だと思われた破傷風菌の培養に成功

マンスフェルトの助言を受け、北里柴三郎は東京医学校(現:東京大学医学部)に入学します。そして卒業後の1883年、内務省衛生局に入省します。官僚として働きながら、1866年より、当時医学研究の中心地であったドイツ留学を果たします。

ドイツのベルリンで師事したのは、細菌学者であるロベルト・コッホです。コッホは、炭疽菌や結核菌、コレラ菌といった病原菌を発見したことで知られていました。当時、病気の原因は悪い空気である瘴気(しょうき)が引き起こすと考えられていました。しかしコッホは、特定の病原菌が特定の病気を引き起こすという説を確立したのです。北里は、そんなコッホの指導の下、最先端の研究に没頭しました。

そして北里は、破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功しました。破傷風は、土壌中に生息する破傷風菌が傷口から侵入することで発症する病気です。体のしびれや痛みから、呼吸困難に陥り、最悪の場合死に至る恐ろしい病気でした。北里は、破傷風菌が酸素を嫌うことに着目し、独自の方法で培養に成功したのです。

さらに、北里は、破傷風菌の毒素を弱毒化し、それを動物に注射することで、毒素に対する免疫をつけることができることを発見しました。これは、後の血清療法の開発につながる画期的な発見でした。血清療法とは、抗体を含む血清を患者に投与することで治療する方法で、現在も医療現場で使われている治療法です。

ドイツ留学時代の北里は、寝る間も惜しんで研究に打ち込みました。その成果は、世界中の医学界から注目を集めました。コッホの研究所には、優秀な研究者が集まっていました。北里は、彼らと切磋琢磨しながら、研究者としての才能を開花させていったのです。

北里柴三郎は、約6年間のドイツ留学を終え、1892年に帰国しました。帰国後、伝染病研究所の設立に尽力します。日本の医学の発展に大きく貢献することになります。

優秀な研究者たちを輩出する研究所

北里柴三郎は細菌学の権威として、日本の公衆衛生向上に大きく貢献しました。中でも、伝染病研究所の設立は、その功績の象徴と言えるでしょう。
1892年、彼は、福澤諭吉の支援を受けて、私立伝染病研究所を設立します。伝染病の予防と治療、そして細菌学の研究を目的とした研究所です。当時の日本において、画期的な試みでした。

伝染病研究所は、所管が内務省から文部省に移管されたことをきっかけに所長を辞任し、その後、新たに北里研究所を創設します。そこではインフルエンザ、赤痢、狂犬病などの血清開発に取り組みました。
彼は、研究所の所長として、研究活動はもちろんのこと、後の人材育成にも力を注ぎました。国内の優秀な研究者を育成し、日本の医学水準向上に貢献しました。そして、細菌学の講習会を開催するなど、衛生行政の進歩にも大きく貢献しました。

また、この研究所の門下生には、黄熱病の研究で成果を上げ、旧千円札の肖像にもなった野口英世がいました。

北里柴三郎が説く予防医学の重要性

「病気になってから治療するよりも、病気にならないようにすることが大切だ」
現代では誰もが納得する考え方ですが、北里柴三郎が活躍した時代、日本ではまだ「予防医学」という概念は確立していませんでした。
病気を未然に防ぐことが医者の使命である、という信念のもと、彼は熱心に研究に取り組みました。
当時、世界中の人々を苦しめていたのは、コレラやペストといった感染症です。治療法が確立されていない時代、感染症はまさに「死の病」として恐れられていました。

そして、帰国後、精力的に行ったのが、衛生環境の改善や、人々の衛生意識の向上です。
講演などを通して、当時としては最先端の知識を人々に伝え、さらに、上下水道の整備や地域の消毒、船舶等の検疫など、具体的な衛生対策を推し進めました。

彼の予防医学に対する情熱は、伝染病研究所の設立にもつながりました。伝染病の研究と予防対策を一手に担う、当時としては画期的な国家機関です。彼は、初代所長として、感染症の予防と制圧に生涯を捧げました。

現代でも、彼の予防医学に対する思想は色あせることはありません。むしろ、新たな感染症の出現で、現代社会において、その重要性はますます高まっています。
彼の先見性とたゆまぬ努力は、日本の公衆衛生の向上に大きく貢献し、現代の私たちにも多くの教訓を与えてくれます。

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